織田信長
畏れ多くも帝より 武勇の長上 天道に感応す
古今無双の名将と頂き 天下布武 これをもって日ノ本を隅々まで平定す!
我が前に立ちはだかる者は容赦せぬ!
者ども我に続け! この乱世 儂が鎮める!
天文3年(1534)~天正10年(1582)
尾張守護代の織田氏の生まれ。父信秀の代から尾張に勢力を広げ、1560年桶狭間の戦いで今川義元を破り、信長の名を世に知らしめた。
永禄10年(1567年)、稲葉山城の戦いで斎藤龍興を破り、尾張・美濃の2ヶ国を領し「天下布武」を掲げた。
天正10年(1582)本能寺で明智光秀に襲われ自害する。
明智光秀
室町将軍家、信長公 共にお仕え
天下の安寧を願い 足利義昭公を15代将軍に擁立
織田家 朝廷との橋渡しをお役とし 今や
織田家数多の(あまた)の家臣団筆頭 !
叡山 本願寺が立ち塞がろうが
信長さまの夢に 信長さまのお下知に 我が人生を賭ける所存!
惟任日向守 光秀
誰がキンカンだと!!
皆さんと楽しく おかしく 面白く 歴史に触れることができれば
もっと岐阜が好きになる 信長公が好きになるよ。
享禄1年?(1528?)~天正10年(1582)
美濃の国で斎藤道三に仕えるが、斎藤家の後継者争いにて一族が離散し、朝倉義景の元で働く。そののちに信長に仕えた。家柄がよく、知略に優れ、人望が厚かったといわれる。また火縄の名手で、飛ぶ鳥を撃ち落とすほどの腕前だった。本能寺にて信長に反旗を翻し、その後山崎の戦で秀吉に敗れた。
織田信秀
拙者は、織田信秀。知っている人は知っている、信長のパパである。尾張織田家三家老の一人 「 尾張の虎」 と言われた勇猛な武将!
美濃の斎藤道三にはなかなか勝てなかったが、今川義元には勝利し熱田の地を占領し商売を繁栄させて経済基盤を作ったからこそ信長の天下不布の基礎を作ったのだ。
ようやく、今の時代に岐阜へ来ることが出来た。
「尾張の虎」、これからも、信長や家臣共々岐阜の良いところを皆に知って貰うために頑張って参る。
永正8年(1511)~天文21年(1551)
清洲城主・織田達勝の家老で、清洲三奉行。尾張を制圧した後、三河・美濃へ勢力を伸ばし、息子・信長の天下統一への大きな礎を築いた。屈強な精神力の持ち主で、またその大胆な軍略・綿密な政略は信長へ受け継がれている。天文16年に斎藤道三と稲葉山城(岐阜城)にて決戦し敗れ、和睦を結ぶ。その際に道三の娘・濃姫と信長の結婚に至った。
前田犬千代
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天文7年(1539)~慶長4年(1599)
後の名を前田利家。14歳から織田信長に仕え、斎藤氏、朝倉・浅井氏などの討伐で戦功を挙げた。信長亡き後、羽柴秀吉と柴田勝家が争った賤ケ岳の戦いでは、一時は勝家に加担するも旧友であった秀吉を攻めず降伏する。その後勝家討伐に加わり、戦功により加賀を与えられ、120万石の大きな領地を築いた。
長曾我部元親
四国は土佐の、最近知名度がちょっとずつは上がって来てる長曾我部元親じゃ。美濃には少し縁があり、尋ね参った次第。
ここ岐阜公園から美濃の良いところを皆に伝えて行ければと考えておりまする。
皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
天文8年(1539年)~慶長4年(1599)
四国平定を成し遂げた土佐の雄。父・国親と2代にわたり勢力を拡大し、一時織田信長とも対立した。本能寺の変後、柴田勝家・徳川家康・織田信雄との同盟で秀吉包囲網に加わり、それを恨んだ秀吉に四国征伐を行われ降伏した。土佐以外の国を没収されて以降も密かなる天下への野望は衰えなかったといわれる。
濃姫
斎藤道三の娘、帰蝶と申します。
信長様に嫁いだ後は、美濃の姫という意味の濃姫とも言われています。
現代の岐阜にも伝わる信長公の「おもてなし」の心を皆さまにもお伝えできればと思っております!
よろしくお願い致します。
天文4年(1535年)~?
美濃の斎藤道三の娘で、織田信長の正室とされる。信長の父・信秀が道三を攻めた際、和睦の条件として信長と政略結婚をすることとなった。結婚後の記録は少なく、生涯の多くが明らかになっていない。本名を帰蝶または胡蝶とする説がある。
羽柴秀吉
羽柴秀吉です。岐阜市の観光事業に少しでも寄与出来ればと思います。宜しくお願します。
天文6年(1537年)~慶長3年(1598年)
後の天下人・豊臣秀吉。平民出身ながら当初今川家に仕え、のちに信長に仕官した。本能寺の変直後、「中国大返し」により山崎の戦いで光秀を討ち取る。信長の孫・三法師を擁して織田家の継承争いに参加。勝利し信長の後継の地位を得た。天正13年(1585年)に大坂城を築き、関白・太政大臣に就任。朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。
古田織部
私が へうげもの でお馴染みの 古田織部でございます
天下一の茶の湯名人 と言われるのは後の話 今は信長様の下武将として おもてなしの精神と数寄者の心を学んでいます
皆様に我が故郷 岐阜や戦国の魅力を知ってもらうために精進してまいります
岐阜におんさったら 一緒に遊ぼまい!
天文12年(1543年)~慶長20年(1615年)
千利休が大成させた茶道を継承した茶人として名高い。武人としては斎藤道三に仕える武家に生まれ、信長・秀吉・家康の順に仕官し、常に天下統一の戦いの中に身を置いていた。当時大流行していた茶の湯の腕に優れており、利休亡き後秀吉より茶の指南役に抜擢され、武家風の茶の湯を完成させた。
織田信忠
父·信長に恥じぬ功名を。
我が名は織田官九郎信忠、美濃を統べてみせよう。
我が心、我が瞳を見よ。
さすればわかるだろう、
この勇猛果敢、一心不乱の想いを、
この地を愛する心を。
弘治元年(1555年)~天正10年(1582年)
織田信長の長男。信長から生前に家督を譲られ織田家当主となる。長篠の戦にて武功を挙げ、以降信長の後継者として活躍した。父信長に忠実に仕え、また能を愛する文化人としての側面も持っていた。本能寺の変で信長が自刃した直後、明智軍と奮闘するも父の後を追い自害する。
森長可
織田家家中、森長可。
信長様の命により岐阜の楽しい事、物を皆の元に届けていくぞ
政(まつりごと)は向いていないが祭り事ならまかせておけ!
永禄元年(1558)~天正12年(1584)
美濃の生まれ。父は武勇の誉れ高く、「攻めの三左」の異名をとる森可成。弟は信長の小姓森蘭丸。
父と兄を立て続けに亡くし、弱冠13歳で家督を継いだ。信長に仕える際に一時拝領し長可と名乗る。
槍の名手であり、武勇に優れ「鬼武蔵」と称された。
森蘭丸
我が名は織田家が小姓
森蘭丸と申す。
再び尾張の地に降り立ち、信長様のお傍にお仕えすることが出来るとは…
とても嬉しい事じゃ。
兄上共々、よろしくお願い申し上げる
永禄8年(1565)~天正10年(1582)
森可成の三男。13歳で信長の小姓となり、のちに兄長可と共に重用され奉行も務めた。
機知に富み、忠誠心に篤く、使者としても活躍した。
生涯信長に仕え、本能寺の変で共に討たれた時は弱冠18歳だった。
池田恒興
幼少の頃から小姓として織田氏に仕え、乳兄弟に織田信長を持つ者。
我が名は池田恒興。
御館様である信長様が天下統一への足かがりとした美濃の地へ信長様に忠義を尽くす為、戦国の時代よりこの者の身体を借りてはせさんじることとなった。皆の者、よしなにお頼み申す。
天文5年(1536)~天正12年(1584)
尾張出身。母の養徳院が信長の乳母であったこともあり、幼少から小姓として織田氏に仕える。
信長の配下として数多くの武勲を挙げ、本能寺の変にて信長が討たれた際には羽柴秀吉と共に山崎の戦に参加。光秀討伐に尽力し、織田家の宿老となった。